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奈良時代後期、宝亀年間(770-780)に書写された『摩訶僧祇律卷第二十八』の断簡7行とおもわれます。
「墨痕淋漓として肉太く稜角を顕はした荘重な感じを与へ・・覇気に満ち独壇場を闊歩するが如き男性的筆致」(『日本寫經綜鑒』)
これは、田中塊堂先生が大聖武の書について述べられたものですが、同様に、本断簡の書をも、適確に、美しく、形容する表現かと思われます。
まさに、大聖武の影響を受けた写経生が、その技量を、気概を、余すことなく出し切った強い書です。
料紙、界線、書体などから、従来この手の古写経は景雲経(*1)といわれてきたのですが、飯田剛彦先生(*2)が、『正倉院紀要 第34号』(平成24年)「聖語蔵経巻「神護景雲二年御願経」について」にて、景雲経とされてきた聖語蔵経巻七百四十巻の大半が、東大寺「奉写一切経所」にて書写された五部一切経のひとつ『今更(いまこう)一部一切経』であると発表されました。
詳細は紀要を読んでいただくとして、ごく簡単に言えば、各経巻の巻末紙背の墨書と、当時の写経従事者の個別報告である手実など写経所文書とを照らし合わせ、双方の経名、経師名、使用料紙数などの一致から、『今更一部一切経』であるとの結論を得たのです。
該論文には、『摩訶僧祇律』の巻第二十一から第二十七と、同第三十の調査結果が記され、経師名は「陽胡穂足」とあります。本断簡はその間に挟まれる『摩訶僧祇律』卷第二十八です。幸い、国会図書館にて、神護景雲二年御願経『摩訶僧祇律』の巻第二十七と同三十のデジタル画像を閲覧することができ、比較の結果、本断簡も「陽胡穂足」の筆跡と判断いたします。
石田茂作先生の『写経より見たる奈良朝仏教の研究』の経師人名年表(参考画像*3)に陽胡種足(穂のことか)の名があります。年表を遡ると、陽胡田次、陽胡人麻呂、陽胡乙益(天平17年)の名がみえ、陽胡は、曾祖父の代から四代続いた経師の家系の可能性が高いと考えます。
僭越ながら、奈良時代の国家事業であった写経制度の整った姿、携わった一人ひとり、また、この度の飯田剛彦先生の緻密な調査研究に、あらためて驚嘆するとともに、奈良時代の官吏・経師から現代の飯田先生へと、千二百年間、脈々と流れ継がれている「もの」をも見た思いがいたしました。
軸:114 x 36 cm 太巻
*1 称徳天皇勅願一切経、神護景雲二年御願経ともよばれる。
*2 宮内庁正倉院事務所保存課調査室長(NEWS読売・報知「紀要34号(6)大半が別の写経とわかった『称徳天皇勅願経』」読売新聞大阪本社記者 戸田聡 より)
*3 天平5年〜宝亀5年間の経師人名年表(76 x 100 cm)
容量の関係上、画像・資料等、最低限のご紹介となりましたが、お品には、より詳しい資料をおつけいたします。
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