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百万基制作されたことから百萬塔と称される、奈良時代の木造三重小塔です。
少し調べてみると、百萬塔は実に大変なものだ、と思うようになりました。限られた紙幅(画面?)で、全てお伝えすることはできませんが、その一端でもご紹介できれば、と思います。
まず、百萬塔がほぼ制作時の姿を保ち、およそ1250年もの長きにわたり無事に伝来したこと自体驚くべきことです。制作時、十大寺に分置されましたが、現存するのは法隆寺に伝来したものだけで、塔身約四万五千、相輪約二万六千が伝存し、巷間に流出しているものは、本百萬塔をはじめ、その一部です。
そして1250年前の技術にも驚嘆します。塔身はヒノキ、繊細なフォルムの相輪部はより堅い材(サクラ属やサカキ、センダン*)と使い分け、内には、世界最古の印刷物と言われる陀羅尼経を納める。また「高さ四寸五分、径三寸五分」との規格どおりに制作され、大変きりっとしたフォルムに仕上がっていること。つまり当時の工人の技術力に感嘆します。
更には、百萬塔の多くに墨書が見つかっており、それが、その当時の工人の手によるものと分かってきているのです。本人氏名、工房、日時等々、その墨書を見るに、工人つまり轆轤工は、墨と筆で書をよくしたのです。限られた文字であったかもしれませんが、それにしても、頭脳労働者ではなかった1250年前の轆轤工に再び感嘆します。
現在では、その墨書を研究調査した先生方のおかげで、工房には左・右があり、二カ年という制作期間、その間に画期があり、制作技法が変化したこと等々、分かってきています。膨大な数の墨書を調査分類されたことも有り難いことですが、千二百年を経て、それ程多くのことが分かる当時の官営工房の正確な管理体制に感動します。本当にきちんとしていたのです。
『続日本紀』宝亀元年(770)四月二十六日条に、
「天皇、八年乱平ぎてすなわち、弘願を発して三重小塔一百万基造らしむ・・露盤の下に各根本・慈心・相輪・六度等の陀羅尼を置く。ここに至りて功おわりて諸寺に分置す。事に供する官人已下仕丁已上一百五十七人に爵を賜う・・」(*)
百萬塔制作は、政権中枢の太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)によるクーデターに驚き、苦しみ、悲しんだ末の「称徳天皇の事後処理のひとつ」(*)でした。百萬塔の魅力はつきませんが、祭司としての女帝の祈りの形であることは、最初にあげられるべきかもしれません。と同時に、墨書を残した轆轤工の姿をとおして、モノ造り日本の萌芽までみる想いがいたします。
*『昭和資財帳5 法隆寺の至宝 百萬塔・陀羅尼経』
本百萬塔は、仕上げ、墨書、白土の制作技法から、天平神護三年(767)、右工房にて孫人により制作されたと判断いたします。工人名一覧(*)にも漢部孫人との名が確認できます。
どうもありがとうございました
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