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古代の寺院というのは現代と違って、官が造営して作る国衙のような存在で、国全体で崇め奉る神聖な存在でありました。輸入されたばかりの頃は崇神派と崇仏派の争いなどもありましたが、政治色の濃いその戦いは崇仏の勝利によって一気に仏の教えを国教とする方向に舵を切りました。よく知られた名で云えば蘇我の稲目、蝦夷、馬子など、あるいは聖徳太子もそのリーダーでありますが、そんな余談はさておいて。
時代は下って聖武天皇の詔により、全国に一国一寺の割合で金光明四天王護国之寺の末寺に当たるそれを建立せよと、つまり国分寺造営の命令が下されます。
こちらは以前にもご紹介したことがあるのですが、国分寺の判が捺された下野の国、現在の栃木県で出土した文字瓦です。
瓦は一つの寺で何万枚と必要なものなので造営する場所の近辺で窯を築いて製作するのですが、それだけでは足りず国内のいくつかの郡部に税金として課し、収めさせてもいます。その時にどの郡で収めたものか、あるいは何処に供給すべきものなのかの目印としてこの文字瓦が存在します。もちろん何万枚の内のほんのわずかな稀少なものですね。
こちらの瓦、更に少ない軒平の瓦、唐草状の文様が彫られた木型が捺されています。そして特徴的な国分寺の文字、発掘資料からも下野のものと判断できます。
下野には白鳳時代に先行するように薬師寺が存在していたらしく、東北への要衝の一つでもあったのでしょう。さらに国分寺が近くに建立されたようです。
現場に行ってみるとわかるのですが実に広大な寺域で、伽藍が存在していたならばその圧倒的存在感は大和の国の威光がすさまじいものであったのを人々に理解させるのには十分であったろうと想像できます。
国分寺の力強い文字、軒平文様、ざくざくと残る布目など愉しめる見どころの発掘品です。
横巾18.9 奥行23.2センチ
奈良時代 8世紀頃
画像に出てくる敷板は付属しませんのでご了承下さい。
参考画像 昭和63年 京都国立博物館発行 特別展「畿内と東国 埋もれた律令国家」図録より
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