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風招 平澤熊一
 雪原 
 

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"平澤熊一” と聞いて「あー知ってるよ」と云う方がもし居らしたらよほどの通でしょう。
ご覧の通りの静閑な絵ですが、観た者の心に深く深く沁み込んで来る、どうしても手に入れなければと思わせた一枚。

熊一の(没後?)に支援者が立ち上げたHP『平澤熊一記念館』(実在はしない)の主意に以下の一文があります。
《貧しきもの汝の名は絵かきなり 》(以下抜粋)
生涯絵を描き売り、家族をこよなく愛した孤高の画家 平澤熊一は権威や名声におもねることなく「貧しきことが芸術を生み、生き方を生む」その姿勢を生涯貫き描き続けた。世俗的な名声や名誉を超越し、自らの絵画の芸術性を追及し続けた平澤熊一はその命が尽きるまで筆を休めることはなかった。〜〜

熊一の言葉
「これ一筆が絶筆の覚悟で描く」(台湾時代)
「寂しく、貧しく、辛いとき、孤独な時こそ芸術は生まれる。そして人生で経験することには無駄はない、その経験は何時か必ず役に立つ時が来る」(宇都宮時代)

熊一の展観
2012年(平成24) 練馬区立美術館
『うちのめされた時が人生をしっかり生きるとき』
2015年(平成27) 栃木県立美術館
『あのころ苦しくても絵があった』

没後21年経った2010年に栃木県立美術館学芸員・特別研究員、杉村浩哉氏の手で熊一の作品(油絵、スケッチ、リト)そして大量の日記・詩などさまざまな資料が調査された。それらを基に各美術館に作品が収蔵され始めている。熊一は生前「こんな大きな絵を残しては子供達が困るだろう」と庭先で毎日毎日大きな作品を焼却しながらも、また新たな作品を描きつづけたと言う。

・・・ざっとこんな絵描きさんのようです・・・


よく「中央画壇と距離を置き〜」という言い方をされる画家が居ますが、おそらく日本という国においてそれは厳しく辛い立場に置かれると云うことを意味すると思います。この国はそうした主流に迎合しない作家を村八分にしたり、芸術家を受賞歴や肩書きでしか評価できない傾向が強く、現実の作品を前に自らの眼で評価できる人はほんの一握りに過ぎません。そして当の画家の中にもそうした権威的な人物が少なからず居るものです。

熊一が自身の置かれた状況をどう感じていたのか、甘んじて受け入れていたか偏屈を通していたかは知る由もありませんが、その作品その言葉からは自らを厳しく律した画家の製作態度がひしひしと伝わって来て胸を打ちます。

ちなみに彼の他の絵を観るとフォーブやキュービズム等を学び、かなりいろいろな描き方の出来る技術力・見識を持っていた画家である事が分かります。
すっかり長くなってしまいましたが、薄暗がりの中 雪明かりに浮かび上がる田畑の情景=おそらくは画家の心象そのもの、をゆっくりと味わって頂けたらと思います。


◆ 絵:幅:45,5cm、高さ:33cm。
額(熊一自作の可能性あり):幅:64,4cm、高さ:52,2cm。
ちなみにこの絵と全く同じ構図のリトグラフが存在、それには1962のサインがあります。
実際よりも少し暗めに見えてしまっているかも知れません。

1908(明治41年)〜 1989(平成元年)
長岡生れ。建築を学ぶため上京、昭和3年に川端画学校(日本画家の川端玉章)で本格的に絵画を学ぶ。昭和8年から昭和12年までに台湾に渡り(フォービズム的なタッチを用いて)現地の風景を多く描く。帰国後の昭和18年には池袋要町のアトリエ村に居を構える(と云うことは池袋モンパルナスの画家たちとも交流したのでは?)。昭和20年、郷里の長岡に疎開。昭和25年、妻の実家 宇都宮に自ら設計したアトリエを構え、そこで(キュービズムに基づく作品等を発表しつつ)後半生を過ごす。以後、自由美術展に出品し、昭和30年 自由美術協会会員となる。81歳没。

昭和を生きた画家 平澤熊一展(栃木県立美術館)
https://www.youtube.com/watch?v=YrbrEEcYKjE

☆ ご売約となりました。いつもありがとうございます。
 


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