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ギャラリー辰巳 因久山焼 酒器  

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 『因久山 酒器<献上手』


因久山焼きの歴史は非常に古く、鳥取県の焼き物として 奈良時代から窯場が開かれていたと伝えられています。

名は窯元が置かれていた久能寺の山号である因久山に因み、明和(1764〜1772)の頃、池田藩より名を拝領しました。江戸時代の明和年間に、京の陶工、六兵衛が御室焼の技術を伝えたのが草創とされ、以後は池田藩の御用窯として庇護され、発展を遂げました。寛政年間には信楽から陶工を呼び、技術を採り入れています。

因久山焼の特徴は、多彩な釉薬にあり、原料の粘土は鉄分を多く含むために、素地はくすんだ赤褐色気味ですが、藁灰釉、辰砂釉などを用いることにより、格調高い意匠となっています。特に御室焼の流れを汲んでいるために、華道の花瓶や一輪挿しなどに名器が多いようです。


因久山焼窯元の所在地(八頭郡八頭町久能寺)は江戸時代には、八上郡(やかみぐん)久能寺村(くのうじむら)と呼ばれていました。八上(やかみ)とは、古事記「いなばの白うさぎ」に登場する八上姫(やかみひめ)の八上であり、とても古い地名であることがわかります。つまり、因久山焼は現在の地で始まったのですが、それがいつの頃であったのか江戸時代初期でさえ既にわからなくなっているほど昔であった、ということなのです。

芦澤家は、初代文五郎と二代目亀五郎の親子が六兵衛に師事してその秘法を体得し、以来その子孫が斯業を継ぎ、いまの九代目良憲に及んでいます。代々、専心因久山焼の製作に心を練り、伝来の秘法と多年の苦心研究に基づき、大正14年に窯を改築しております。

掲出の因久焼の酒器は 菊の御紋が取っ手に二つ付いており 釉薬は 信楽の釉薬にとても良く似ています。当然ながら、因久焼は日本の各地か
ら陶工を招いて作陶されたことからして、それも頷けると思います。菊花紋は献上された物、若しくは、藩官窯出の物を表していると思われます。

現在はたった一つの窯が操業しているようですが、この酒器の裏面の 因久山 の押印銘と 添付されておりました紙片によりますと、明治頭には すでに廃窯された窯によるもので、幕末期頃と推定されております

ぜひ味わいある 幻の 因久山焼き 酒器をお手元にと思います


長径21,5cm 高さ17,0cm
幕末〜明治初頃
ほぼ良好<身の縁に少しあたりがあり、画像でもお分かりのように高台の足に少し掛けが、また、少し釉薬剥げがみられますが、土物であることと年代物であることを考慮しますと許容範囲と思われます


内税 送料は当方持ちとさせていただきます

なお店頭販売もいたしておりますので、売約の場合はご容赦ください

宜しく御願いいたします
10,000円


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