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風招  會津八一  東大寺大佛讃歌  

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會津八一と云う人に興味を持ったのは、十数年程前『早稲田大学會津八一記念博物館』を見学して、八一と古美術との関わりを知ったのが最初でした。
未だ八一の人と為りについて云々するほどの知見は持ち合わせておりませんし、おそらくこの草稿にご興味を持たれた方には今さら八一の説明は不要ではありましょうが、骨董との関わりを中心にざっくり紹介すると…

1881(明治14)~1956年(昭和31年)
号は秋艸道人、渾斎。
新潟市生まれ。早稲田大学英文科卒、一環して早稲田の中・高・大学(文学部)で教鞭を執った。
昭和を代表する書家、歌人、美術史家、古美術研究家。とりわけ奈良を愛し、古美術や仏教美術に造詣が深く、料治熊太を従えて中国の明器・俑・鏡・瓦磚など金石類の蒐集に邁進した。教育・研究の実物資料と云う大義名分の元、その購入費用として自作書画の即売展を開催、親戚旧知と云えども揮毫料を徴し、ときには坪内逍遙らからも援助を仰いだと云う。

本稿は癸未(みずのとひつじ)=昭和一八年に中央公論四月号に掲載された歌集【東大寺大佛讃歌】の草稿のひとつで日付けは[三月十日]。八一は、常に妥協を許さぬ性格から弛まず推敲を繰り返す作家であったようです。翌[三月十一日]にも稿が重ねられ、本稿に僅かに手を入れた様子が覗えます。この[三月十一日]版は松本昭雄氏による資料ノートとしてネット上に掲載されていますので、参考になさってください。
◆「東大寺大佛賛歌十首并序」に関する資料ノート(高松大学図書館)
http://www.takamatsu-u.ac.jp/library/06_gakunaisyupan/kiyo/no47/47_II_035-074_matsumoto.pdf

八一は左利きだったそうで、子供の頃 字が下手で矯正を指導されていたようですが、今で云う「ヘタウマ?」。昭和一桁〜終戦まで辺りは筆力も充実していたようで、実に味わい深くいくら見ていても飽きません。毛筆による軸物やペン字でも手紙ハガキ類は世に多く存在しますが、草稿はなかなか見ないものと思います。


余談:八一に対する世人の評は。。。
堀口大學「強気と弱気を同時に心中に蔵した人」
曾宮一念「一面知性と温情の人であり、一面世欲と自我に固執した人」
八一の「自己憐憫」は、ある種の劇化を経て記憶を歪曲させ、八一の性格を形成するひとつの要素となっていた…。
植田重雄「道人の大喝激怒は性格そのものと同じように多岐にわたり複雑な様相を呈していた」
怒りに任せて「出入禁止、絶交、破門」をしても、その回復を待ち望むのは道人の方が強かったという。大抵は道人の方から書や手紙を送ってよこし関係は旧に復するのである、と植田重雄が書くように、激し易い性格を本人も自覚し、しばらくすると反省して謝罪の手紙を書いたりするのである。
。。。等々、愛すべき雷オヤジといったところでしょうか?
 


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